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超説 すべてはまぼろし

嬉しかった出来事、悲しかった出来事、寂しい思いをしたこと、そのすべてはまぼろし。
眩かった光、おいしかったゆうべの食事、水を吸って増えたワカメも、やっぱりまぼろし。
テレビで見たタレントも、屋根の上で寝てた猫も、鮭を獲ってた熊だって、全部全部まぼろし。



いやいやそんなバカなという思いとあぁ本当はそうなのかもしれないなという思いが入り混じる、ユニークでだけどちょっと切ないポッジーニさんの名曲「すべてはまぼろし」。

いま現在経験している出来事なら生々しい知覚があるけれど、もうここにない一瞬でも過ぎさった過去の出来事なんて本当はなかったものなのかもしれない。そんな厨二的哲学懐疑は誰しも一度は抱いたことがあるのではないだろうか。
たいていのまともな人たちは大人になる前にそんな哲学風邪から回復し健全な社会生活を営むのだろうが、一部で症状を拗らせてしまう人もいて、ある者は素敵な歌を作り、またある者はこんな愚にもつかない論文まがいを書きつづる。

さて、では過去は実在するのであろうか。
そもそも“過去の実在”というとき、私たちはいったい何を意味しているのだろう。

たとえば「昨日友達と食事をして楽しかったなあ」と思い浮かべるとき、事実としてそのような出来事が昨日という過去に存在していて、だから今それを思い出すことができるのだ、という思いが強くある。
しかしその強い思い込み、確信の根拠を問われると「えー、だって実際そうだったから…」と口ごもってしまうのではないだろうか。
思い出し・思い浮かべとは別に、それと独立して、思い出す以前から確固としてあるはずと思い込んでいる“過去”というものを捉えようとしても宙をつかむばかりになってしまう。
じつは私たちは「思い出すことに先立ってあらかじめ存在している過去」なるものの意味を持ち合わせていないのである。そういう意味を言表可能な形に形成できたことが一度もない、ということである。
ではまさか、何かを思い出しているとき、しかも「確かにあった過去だ」と強く確信して思い出しているにもかかわらず、だけど実際にはそれらは何の実在にも呼応していないただの“まぼろし”だというのか。
その通りではないか、といいたい。
その実例を、寝ているあいだに見た夢の内容を目覚めてから思い出すときに体験している。つまり、目覚めてから「こういう夢を見ていた」という話は聞くが“いま見つつある夢”の報告などはありはしない。起きて初めて「夢を見ていた」と語りだすわけだが、それは本当に眠っているときに見た夢なのだろうか。そもそも眠っている最中の“夢見”という体験自体がありもしない虚構であって、あるのは覚醒時の特異な思い出し体験だけではないのか。
つまり私たちが実在する過去なるものの意味を手にしていない以上、すべての思い出しもまたこのような夢まぼろしと同じなのではないだろうか。
それは「人の一生なんてみなユメマボロシのようなもんさ」などとセンチメンタルな喩えではなく、端的にそれに対応した現実がない、ということである。

ではそれで、実際私たちは過去を虚無か夢か走馬灯のようなものとして空空漠漠とした心持ちのまま脱俗した遁世ライフを送っているであろうか。
隠者や世捨て人のようにそうした態度での生き方・ライフスタイルを持つこともあるいは可能かもしれないが、多くの人は「もちろん過去はあっただろう」と思いながら、じつは過去の実在には頼らないもっと俗臭豊かな仕方で過去というものを扱っているのではないか、と思われる。

以下に、日常場面の観察から実際には過去がどのように扱われているかを考察していきたい。

「昨夜の友との会食」などを思い出す。
まず、その思い出しの内容が昨晩であれ10分前であれ5年前のことであれ、その“思い浮かび”自体はいま現在の経験である。
そしてそれは薄っすらと、ときには鮮やかに色や形や音を持っているように思われがちだが、実際には思い出しという想起には見え・聞こえ・味といった知覚はない。思い出される友人の服のボタンにいままじまじと目を凝らすることは出来ず、レストランの隣席のカップルの会話に耳をそばだてることも出来ない。料理は美味しかったがそれを思い出してもいまは口内にはなんの味もしない唾しか出てこない。
想起されているのはただ「あの子は洒落た秋物を纏ってたな」とか「いけすかないジャズが流れてた」だとか「デザートにアイスを食べた」など過去形の言語命題の一群なのである。これらの想起された言語命題は想起された経験の描写や叙述ではない。その言語命題自体が想起された当のものなのであって、想起された経験の言語的表現ではないのである。
つまり想起とは、思い出しているいま「言語による命題的な経験」として初めてする体験なのである。過去形命題の言語的な了解こそが思い出しの体験であり、そしてそれはどこかで思い出されることを待ち構えて待機していたある体験の擬似映像が“再放送”されるようなものではなく、いま現在の体験なのである。

たしかに思い出しに際して知覚風景が浮かびあがる感じはどうしてもぬぐいきれない気がする。
しかし、この映像めいた何かは知覚的な“想像”であり、真の思い出しである命題の言語的了解の単なる補助、いわば文章を読むときに挿絵されるイラストのようなものではないだろうか。
それはたとえば、微生物やDNAのような「本来見えないほど小さいもの」の姿を電子顕微鏡で覗いたときにそこにある二重ラセン形をその“拡大”だと理解する仕方に似ている。つまり、本来見えないほど小さいものだからそれを知覚的に見たことはないわけで、顕微鏡の映像と比較してそれをその本物の拡大だということも出来ないはずなのだが、理論的な考察(光学理論やX線解析理論等)によりその顕微鏡映像を本物に重ねて“考えて”いるのである。この“考え”とは諸理論に基づいて、すなわち言語的になされるのだから、微小物の理解は言語的了解なのである。
顕微鏡で見えていた像はいわばその言語的了解を補助する図解のようなものにすぎないのだが、そのことを忘れその知覚的な図解を微小物の形そのものと短絡してしまう人がいるように、思い出しのときに浮かぶ薄い映像めいたものを知覚の再放送のように考え、それが“実在する過去”という妄想に人を誘ってしまうのではないだろうか。知覚的補助イラストを想起内容そのもの、すなわち実在する過去の影かのように思い為して。
しかし、知覚的な図解には過去の過去性そのものを表現することは出来ないのではないかと思われる。
たとえば、「あの日の夕焼けはまぶしかった」という思い出しを知覚風景で図解しようとすると、ただ鮮やな茜色の空を用いてしまうのではないだろうか。しかし、茜色の空の図とはいままさに夕日が降り注いでいる風景であり現在進行形の景色ではないか。「夕焼けがまぶしかった」という過去の知覚風景などどこにもない。
これに限らず何であれ、過去性というものを知覚的に描写など出来ないのだ。過去性の図解なんてありえないのである。
では何によって過去性は理解されるのか。それこそが過去形の言葉遣いの了解、つまり言語的了解によってである。

ところで、思い出しのそのつど命題の言語的了解によって経験されるという点においては現実の体験も夢も同じように思えるが、その真偽を問う必要の有無となるといささか違いがあると思われる。
どちらも思い出しに先立って存在しているわけでないと考えるなら、その想起内容の真偽は比較参照すべく原版が存在しないわけだから誤謬という意味自体が成り立たない、というところは一緒である。だが、あくまで「自分自身の経験である限りにおいて」はこの無謬性は成り立つのだが、夢の想起においては問題がなくても、現実の過去について語る場合想起同士の食い違いという問題は起こりうるだろう。
複数の当事者間での合意を必要とするような社会生活の場面において、出来事の想起が言語的な表現に過ぎないのならば、その出来事の真偽、ゆうべはどっちがカラオケ代を立替ただとかは一体何に基づいて判定されるのだろうか。 貸し借りも何も言葉によるのならいくらでも恣意的に捏造できてしまうのではないか。さあ、真なる過去は一体どうであったか。ここで“過去の真理性”というひとつの概念が築き上げられてきたのではないだろうか。
たとえば“高尾山の天狗”や“伝説の忍者”は「夢でも見てたんじゃないの」と一笑に付されてしまうだけだろう。一方、昨夜の会食は現実(真実)だと信じられるのは、過去命題の持つ整合性(同行者との証言すなわち想起命題の一致、少なくともその整合「昨日はああでこうで楽しかったね~」とか、財布の中の残金の寂しさ・二日酔いの頭痛・化粧を落とさず寝てしまった肌荒れといった現在の物理的状況との合致とか)が保証されて、それが今とスムーズに接続しているからであると思われる。すなわち想起内容が“真理の整合性”を保っているからだ。
つまり、何か超越的な実在、すなわち過去それ自体があってそれに対応することを真理条件とする“真理の対応”ではなく、「現在への接続」と「過去内の整合性」を過去命題の真偽を決める真理条件とするというわけである。

また、この真理の整合性によって真とされる過去命題を系統的につなぐことによってひとつの物語が出来上がるだろう。この物語こそ、私たちが想起による過去と呼ぶものに他ならない。つまり、過去とは物語なのである。それは虚構としてではなく真なるものを目指して作られる過去物語なのである。

いま現在の想起を真理条件に沿わせながら過去を物語としてこしらえていくというやり方は、私たち人間とは無関係にアプリオリに実在する過去というものの硬質な近寄りがたさと比べると何とも生活臭のするハンドメイドな過去の捉え方かもしれない。
しかし、“手作り風プリン”はおそらく工場で機械的に作り出されているが、私たちの過去とはかようにドメスティックで手作りなもののように思われる。
何日か前プリンを手作りするつもりでいたが途中でめんどくさくなって、結局既製品を買って食べ満足した。そのせいで余ってしまった牛乳を今朝がた飲んだのだった、という過去。
それは、無駄にブックマークしたクックパッドのページ、コンビニで買ったプリンのレシート、牛乳パックに記された賞味期限、ゴロゴロするお腹の地獄の苦しみ、といった現在の物理的状況やまざまざとした知覚に、整合的かつ無理なく接続できる想起内容をいま言語了解的に“初めて”体験しながら制作した真なる物語であるというわけだ。そう、牛悪くない、悪いのは自分だったと思い知るのだ。

それが、私たちが隠者のごとく脱世なの過去を選ばずに、俗衆らしく「この世のてのにありがとう」しながら生きる道なのである。
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擬人化しあう私たち

※これは以前mohigerian氏より、「『艦これ』というゲームに関する同人誌になにか書かないか」というお誘いを受け、ゲーム全般に疎い私なりに自由に書かせていただた小文の転載です。



「艦これ」とは、旧日本軍の軍艦をかわいい女の子に擬人化した「艦娘(かんむす)」を集めて無敵の連合艦隊を目指すゲームである、そうだ。そうなのか。
かわいい女の子のことを語らせればこの企画のページ数限度に収まりそうもないので、今回は「擬人化」ということをテーマに書いてみたいと思う。

 
人ならざるものを人のように見たて、人間の性質・特徴を与える比喩の方法を「擬人化」というが、人間でないもの、とりわけ戦艦のような無生物に比して人間が持つ特性としてまず挙げられるのが「精神活動」だと思う。
ところで、自分がものを感じたり考えたりするように他人である家族・恋人・友達・すれ違う人びとであっても物ではなく人間であるのなら、みな同様に精神・心を有しているであろうことは疑われていないようである。

しかし、これは事実であろうか。

人ならざる機械、たとえば掃除機が大きすぎるものを吸ってしまい「ブフー、ブフー」と唸っているとき「苦しそう、かわいそうに」などというと、「ヤレヤレ、『掃除機さんかわいそう〜』とかいってる私かわいいアピール、ですか」といった目で見られる。
ところがその後、さっき私を呆れ笑いで見ていた友人が本棚の角に足をぶつけて「アイタタ、痛ったあ!」と喚いていたとする。
そのとき私は平然とした顔で「ヤレヤレ、あなたは本当に痛みを感じているんですかね〜」などと尋ねたりはしない。
だが、尋ねてみてもいいはずなのである。
なにもさっきバカにした態度をとられたことに対する腹いせではない。私ではない他者の本当の「痛み」やら「苦しみ」やらのあるなし、その決め手はなんなのかをこの際にちょっと考えてみたいのである。

ではここで、掃除機よりは幾分高価な機械、非常に精巧なロボットで考察してみたい。
ロボはなにかの拍子に転倒してしまい筐体の一部を破損した。皮膚と見紛いそうなほどのシリコン樹脂も破れてしまい、そこから血ではなくなんらかの化学液体が漏れ、銅線が何本か飛び出している。
しかもこのロボットは、「ブフーブフー」ではなく「い、痛い」「ゼィゼィ、苦しいよぉ」と振る舞い、顔の表情をしかめたりもする。
なるほど、よくできてはいる。が、所詮はプログラムによってそういった「フリ」をしているだけじゃないのか。
そんなふうに尋ねてみれば「もう!本当に痛いんだってば」とロボおこになって返してくる。
病院ではなく研究所に搬送し、医師でなく技術者が破損箇所を検査してみれば、人間の神経繊維とは比べれば無愛想な金属線が走り、それをパルス電流が流れている。
そしてそれがロボットであるワタクシの痛覚神経なのだ、つまりわれわれロボットがやや硬質な素材であるのに対し人間はぶよぶよで水っぽい素材で出来ているというだけで、仕組みとさほど変わらないのだ、というだろう。
ここらで呻いている友人のことを思い出し、彼のケガも見てみる(看るのではなく)。
足指の物理的な傷、それに伴う痛覚受容器の物理化学的変化、それに伴う痛覚神経の電気化学的な変化、それに伴うその変化の電気化学的伝導、そして脳の知覚神経細胞の物理化学的変化-そして「痛み」、このとき体のなかの諸変化は物質の動きであり変化である。だが、彼は足が痛いのである。足の指を見てみる。しかしそこにあるのは傷口であり、あるいは受容器の変形や損傷である。そのどこにも「痛み」は存在しない。物質粒子はどう動こうと粒子の動きであり、そのどこにも「痛み」はない。
ふたたび脳の神経細胞を調べる。そこに見出すのはあるいはタンパク質、 あるいは脂肪、あるいは無機物質である。また、どのタンパク質が痛んでいるのだろうか。やはり、どこにも「痛み」はない。

結局、決め手はないのである。
それは「痛い」とか「5+7=12」とか「カレーを食べよう」とかと、細胞の興奮やら神経伝導などとはまったく別のことだからである。
脳細胞のどこをほじくっても、痛みも思考も意志も出てこない。コギトはすべて物質世界から閉め出しを食らっている。
そういったことを生理学や工学的なやり方で検出できると思うことが端からトンチンカンなのだ。
私がちょっと指先を切っただけで私は端的に「痛い」のだが、自分以外の人間が自分が感じるのと同様の痛みを感じているのかどうか、それを確かめる方法というものが原理的にないということなのである。
その点で、物質的組成の違いだけで、自分から見ての他者、つまりは家族友人であろうが自分以外の人間はすべてロボットと同じ位置にある。

しかし問題はこれにとどまらない。

傷薬を塗りながら友人はなおもこういうのだ。
たとえ自分ならざる他者であっても、親しい人の痛み、たとえばそう、痛みに泣いている子どもを信じない親などいようか。我が子の痛がりを信じるのにわざわざ物々しい証明など必要ないだろう、と。
ええ、ええ。そうでしょうとも。
しかし、もし自分が信じている我が子の痛み、それがじつは我が子の痛みでないとしたら(いや、DNA鑑定の話ではなく)。
信じていることの真偽の証明がないということではなく、信じていると思っている事柄自体が不可能な事柄であったら、という話である。
そしてこれは事実、そのとおり不可能な話だと思われる。

私に見える「赤」という色、私が感じる「痛み」、それらはただ私自身に見え感じるものではないか。それを他人が見たり感じたりすると考えることは不可能である。
だから、他人も私に似た経験をしていると想像したつもりでも、じつは想像できているのは他人に成り代わったつもりの私自身のことではないだろうか。
想像できるのはどこまでいっても他人に変装したつもりのこの私の感覚であって、私自身をやめた他人の気持ちではない。
ああ痛かろうに、とどんなに心痛したところで「我が子が痛い」ということを想像してはいない。その想像は不可能だからである。
しかし、だからといって我が子にコスプレした自分の痛みに心痛しているわけではない(その変装は別の意味でイタい)。心痛の対象はあくまで我が子である。
じつはこの奇妙な状況で行われていること、「他者に成り代わった自分」の想像を投げかけながらその他者に向き合うこと、感情移入というより感情の投射を行うことこそが、自分ならざる他者を自分と同様に見立て、自分と同じような性質・特徴を与え見る、「擬人化」ならぬ、まさに「擬自分化」なのだ。

他人に心があるのは証明の結果だったり信じたからなのではなく(そしてその仕方などどこにも存在しないのであった)、心あるものとして見、応対するという態度をとっているからなのである。
その態度をもって他人に心を吹き込み、他人の心を創っているのである。
態度、なのだから自分次第でいつだってやめようと思えばやめることもできてしまうし、その途端にその人は無機質なただのデクノボウの群に囲まれて生きていくことになり、デクノボウたちによってその心ない態度を「アイツニハニンゲンラシサガナイ(あいつには人間らしさがない)」などと評されるだろう。つまり今度は疑人化される(人であることを疑われる)のである。
心の吹き込みあいこそが、他人を、自分を人間たらしめているのだ。

道端の小石であろうと風に揺れる木の葉であろうと人間であろうとロボットであっても、それら自体としては心あるものでもないものでもない。
花が微笑むのを見、馬が鼻で笑うのを聞き、荒波の慟哭に胸をしめつけられ、長年愛用して動かなくなってしまった家電との別れにさみしさを感じる。
それを心だと感じている、まさにそれが心だということである。
 
古の人びとが獣に山川草木に天体に雷に海に“アニミズム”と呼ばれるような寛容で鷹揚な擬人化・擬自分化の態度をとっていたように、現代に生きる私たちもペットやぬいぐるみ、家具や道具、物語やゲームのキャラクターにだって、いかに接し交わり暮らすかによって自分自身の人間性も豊かにも貧しくもなるのではないだろうか。

私は中身のない人間である。

私は中身のない人間である。

「いえいえ、そんなことないですよ~」などと言って私を励まそうとしてくれるあなた。あなたもまた、そうなのですよ。中身なんて、ひとっつもありゃしない。
おやおや、どうしました?今日は虫の居所でも悪いのですか。けど自分を卑下するのみならず他人にまで攻撃的に当たるなんて良くないですよ、とでも言われようか。
しかし、卑下でもなんでもない。ヒゲやオデキと同様、あなた方が言う「人間の中身」なるものも、皮膚よりも表面に、すなわち内部ではなく外側にしか現れえないものではないか、と言いたいのだ。

さて、ここで言う「人間の中身」とは何だろうか。
外見だけの人ではなく中身のある人物になりたい、そういう人とお付き合いしたい、などと言うのを耳にするが、ではその「中身」とは何なのか。
たとえば、他人を慮れる「優しさ」がある。
たとえば、美しいもの・素敵なものを感じ取れる「感性」の豊かさ。
たとえば、流行に左右されず自分はこうするのだという強い「意志」を持っている。
たとえば、行き当たりばったりではなく先々のことを見通して考えることのできる「計画性」がある。
…等だろうか。

それらはその人の目鼻立ちや髪型、装いや肩書きといった外側に表われているものに対して内なるもの、内なる「精神性の有りよう」なのだと思われているようだ。
だが“内なる”とはいうものの、その「うち」と「そと」との境界はどこにあるのだろうだろうか。
まさか先ほどの皮肉ではないが本気で皮膚の外側とそれより内部という分け、文字通り“皮”や“肉”のウチソトを言っているのではあるまい。
胃袋や脳みそはなるほど、化粧も出来なければ立派に着飾ることもできないように思えるが、外科医の手によって身をヒラキにしてもらったり三枚におろしてもらえばそれも不可能ではない。

いやいやいや。
物質としての脳はたしかに手術でもすれば髪や鼻や手足と同様外気にさらすことも可能なブツではあるが、そうではなく、目には見えない脳の働きとしての「感情」「情念」「思考」等々、それらの総称をわれわれは“心”と呼び、その“心”の豊かさ・温かさ・綺麗さをこそ「人間の中身」と称しているのだ、と言われようか。

しかし、ここには2つの誤解があるように思う。
「感情」「情念」「思考」等が脳の働きの所産である、つまり“頭の中”から生み出されるという誤解と、それらは目にはつかない“心の中”という場所に秘められているという誤解が。

たとえば、絵画などを見ていたく感動するといった経験がある。
このとき体のなか、脳内で生起していることについて、たいていの人は多少なり解剖学や生理学知識を聞きかじっていて知っている。

壁に掛けられているのは絵の具の平面的分布でありそれ自体は何の感動もない原子分子の集まりである。
そこからの反射光が網膜に入り電位パルスに変換され神経を伝導し大脳の視覚領野に到達し像を結ぶ。
またこのとき視床下部のあれこれやホルモンやアドレナリンの分泌がなされた結果、「私に素晴らしい絵が見えて、それに感動する」と。

だが、脳が外部からの刺激に反応しデータ処理を施されたそれを「見」たり「感じ」たりするのは何者なのか?
もちろん「私」である。
だがその「私」はどこにいてどのような仕組みでその作用を受けるのか?

頭蓋の奥でうずくまり、脳が処理した情報を受け取る「小さい私」がいるとでも言うのなら、結局受け取った情報をその私が見たり聴いたりしなければならない。
「私がいかにして見るのか」ということの説明は依然としてなされていないままなのだ。
これでは小さい私の頭の中にさらに小さい私をこしらえてマトリョーシカが仕立てられていくだけである。

いや、そうではない。脳が処理した情報を君が見る必要などないのだ。脳が情報を処理した、というそのことがすでに君が「見た」ということなのだ、と言われようか。
これはつまり、頭の中で窮屈に暮らしながら脳からの“翻訳処理済み”と印された郵便物を受け取る「小さな存在」が私なのでなく、脳そのものこそが私なのだ、ということだろうか。
外部からの情報を物々しくデータ処理し翻訳した訳文という“コピー”ではなく“原文”をそのまま読んでいるということは、視覚で言えば「実物の風景を直に見ている」ということになる。
ならば“見える”ということを引き起こす「原因」として処理作業があるのではなく、それは見えているときの体のある部位でのエピソードのひとつにすぎないのではないか。
たとえば、腰を折り曲げ上半身を前に傾ける“お辞儀”が「原因」で“挨拶”が発生する、とは言わないように。

結局のところ私に何かが「見・聴こえ・感じ」ているとき、脳内での物質の動きをその現象を生み出す「原因」である、と言うことは出来ないのである。
というより、そんなことを言おうとする必要など、そもそもなかったのではなかろうか。
私たちの日常的な知覚経験をもとに、後年そのなかから科学の言葉は定義されていった。
原子分子の集まりとして描かれるリンゴが、知覚のリンゴと同位置・同型であるのは“事実”としてそうだからではなく、そのように定義されたからなのである。
科学的描写は必ず知覚風景に重ねて描かれるものであり、知覚風景から独立して描くことはできない。
しかし、もともとは知覚風景を根本的前提としていながら、一旦描かれた科学描写は独り歩きを始め、「この世界の科学描写をすればそれが真の世界描写であり、知覚風景は脳に映じた挿絵や幻のようなもの」という本末転倒の考え方が生じてしまった。
そうした挙句、日常的な知覚の“原因”をも科学によって描写しうるはず、という長年の強迫観念にとり憑かれてしまったのではなかろうか。
だが、これは全く逆なのである。
知覚風景なしでは科学描写は意味を持ちえない。

要するにそれは「原因‐結果」の関係を言うものではなく、かといって全然関係のない事柄だというのでもない。
時間空間的に重ねて別言語で語られる“描写法”の違いのはずであった。
たとえば、「物が燃えている」のと「炭素と酸素が化合する」のとは、原因と結果ではなく、一つの同一の事柄を二様に語っているのである。
一つは知覚の言葉で、一つは科学の言葉で。この意味で、二つの語り方は「〇〇とはすなわち…」の関係である。
視覚と脳変化を語る二様の言葉があり、異なるのはこの語り口である。一方がもう一方の原因となるような二つの異なる出来事はない。
体内で起こっていることの科学語での語り方、それが脳生理学者の語る電気信号の神経伝達や脳内の細胞の動きといった話なのである。

たしかに、脳内にイレギュラーな事象(疾患や損傷など)が起これば視覚にも異常が生じたりする。
しかしその事実をもって「脳原因説」に舞い戻るは早とちりである。
たとえば、緑のセロファン紙越しに見れば白い壁は緑っぽく見え、大きなバスが横切れば向こう側の建物は見えなくなる。それらは私たちにとって前景の変化として捉えられている。
では、眼球に傷が入った場合はどうか。
やはり、景色は変わって見えるであろう。
セロファンや大型車と同様、目ん玉も生得のカメラレンズという「物質」である。
そして脳みそもまた、物質である。
つまり、目や脳もセロファンやバスのように前景の一部だとは考えられないだろうか。
すると、セロファンをかざす前と後やバスが通る前と後のように、目を引っ掻かれる前と後、脳の血管が切れる前と後とで風景に変化があるのはなんら不思議なこととは感じられない。
いや、風景の最前線に脳みそが浮かんでるなんてバカなこと想像できるか、邪魔で何も見えまい、という方は探偵ポアロの「 grey cells(灰色の細胞)」か解剖室で頭の蓋を開けられて観察されている状態を思い浮かべているのかもしれないが、生体の眉の下に位置して外部風景を透視しているときにはそれは透明なのである。
そう、網膜以降の脳全体を網膜というレンズがちょっと肥大したものと考えてもらえばよい。
つまり脳→視神経→眼球→空気→物、と“脳や視神経をも透かして”前景を重ね見ているのである。
セロファンの場合と違うのは、脳や視神経のいかなる変化が「すなわち」外部風景のいかなる変化であるのか、それを私たちはあまり知らない、ということだけである。
正常時には空気と同様に透明な脳が、異常時には何色に見えどのように歪んで見えるのかについて、われわれはあまりにも経験不足なのである。
しかし兎にも角にも、脳に異常が生じそれが透明でなくなるとき、それを“透して”見る外部風景に変化が生じることは、セロファンの場合と全く同様「すなわち」の関係によってなのである。

しかし、セロファンやバスや目のケガによって風景が変わることに対しても「それは対象からの反射電磁波の変化または遮断、あるいは網膜の光量子受容体ロドプシンの再合成および信号伝達の遅れが大脳後頭葉の視覚領野に及ぼした影響がウンヌンカンヌン…」と“原因”を説明したがる人がいるだろう。
だが、「透けてない事物の向こう側は透かし見ることが出来ない」「透けている事物は透けて見える向こう側と重なって見える」というのは単に視覚風景が持つ“論理的性質”ではないか。
論理的、というのは何も特別な理屈などではなくトートロジーである、ということだ。
論理的とはつまり言葉の規則に従っているということであり、ゆえに冗長な同義反復なのである。
その論理的に当然なことの描写に対して「セロファンで波長が変わって」「バスの後ろで光が跳ね返って」「網膜の色素体の再合成量が足りず」などといま一度語るのは“原因”を暴くような説明をしているのではなく、物理生理学の語り口での平行的な描写を添えているだけなのである。
光が目にこない“から”見えない、のではなく、見えていないとき反射電磁波が網膜に達していない、という化学語での“付け加え”なのだ。

そして“論理的性質”であるならば、ここに脳の影響は意味を持たない。
たとえば、「1+2=3」、この足し算に対し、「脳の構造によって 1+2=3 となる」などとは言えまい、ということだ。
もし「脳の構造によって 1+2=3」というこの文が脳の因果的関与をいうのであれば、「脳の構造がいまと異なるものならば、1+2=3 とならない」と言えることになる。
これが“脳の病変によって正しい計算が出来ない”という意味でなければ、他にどのような意味を持つのか。1+2=4 も可能ということだろうか。
ならば、そもそも脳内変化や脳の構造を語るために持ち出した計量的表現一般が意味をなくしてしまう。
そしてこのとき「この脳の構造がいまと異なるものならば、1+2=3 とならない」という文そのものの「脳」も意味を失う。
算術の法則に則った思考は脳の正常な状態を示しはしても、算術の法則そのものは脳の構造に由来するものではない。
また「AならばBである。いまAである。ゆえにBである」というこの三段論法が脳の生み出したものであれば、
「もし脳の構造が異なっていたら、三段論法は成り立たない」が意味を持つはずである。
しかしそうなると、論理的推論そのものの意味が変わる。
まだ意味があるとして、そのとき「もし脳の構造が異なっていたら…」という推論文の「脳」は意味を保っているのだろうか。いや、保てまい。
数学・論理学・その他その法則に従った命題の正しさが必然性を持つとき、その正しさに脳は関与しない。
必然性の由来は脳ではない。
計算や推論の正しさは脳の影響からは自由なのである。

さて、主に視覚について見てきたが、他の知覚に関しても同様に“脳によって生み出されている”というのは長きの誤解であろう。
私たちは電磁波を見たり、空気振動を聴いているのではない。見、聴きしているとき、その同じ状況を言い表す別の言い回しを長いあいだ“原因と結果の関係”であると勘違いしていたのである。

うーん。いや、それにしたって、仮に視覚の原因を脳の機能に求めえないとしても、「絵を見て感動する」そのときの“感動”とは、やはり自分の心の中だけのものではないのか。
「壁に掛けられているのは絵の具の平面的分布でありそれ自体は何の感動もない原子分子の集まり」であろう。
また、仮に自分には素敵な絵に見えたってちっとも良いと思わない人もいたりして、皆が同じように感動するわけではあるまい。感想は十人十色、人それぞれではないか。
それはつまり、感動とは各人の心の中にあるということではないか。
そう問われるだろう。

しかしその考えは、私を感動させている当の絵から「感動の情」というものだけを抽出し引き剥がしていることになる。
だがそのように絵から「感動」だけを抜き出すことなど出来ようか。そもそもそのような、いわば「純粋感動」のようなものを考えることが出来ようか。
私が感動しているのは絵に対してであって、そんな「感動エキス」にではない。
頭痛に見舞われているとき、端的な頭の痛みと別にその“痛み”を痛んでいる私がいるわけではないように、“感動”を感動している私がいるのではない。
ただ「感動する絵がある」という状況を、「私が絵を見て感動している」と言い表しているのだ。
そして「純粋感動」など抜き出せないのと同様に、その感動を漂白し抜き去った絵というものを思い浮かべることも出来ない。
じっさい「それ自体は何の感動もない原子分子の集まり」としての絵というものをいくら考えようとしても、好きだ・嫌いだ・何かに似ている・あまり上手くないな・前衛的だ・退屈だ・素敵だ・高そうだな・無味索漠だ…等々の、あらゆる感想・雑感を一切抱かずに“絵”を見ることは不可能ではないか。
事物とその感想を引き剥がすことは出来ない相談なのである。
そしてその絵は私の心の中に飾られているのでなく、額に入れられ前の壁に掛けられている。すなわち「感動」はその絵のところにあるのだ。
また、感動のあまり目頭が熱くなろうが胸がキュッとしようが、それらの感覚が体内にあるとは言ってもそれを「心の中」とは言えないだろう(歯の痛みや胃痛が「心の中」だとは言わないように)。
「泣くから悲しくなるんだ(だからもう泣くな)」といったお説教(励まし?)があるが、目頭が熱くなることが感動なのではなく、あくまで絵に感動して泣きそうなのだ。
その絵もなく、ただ涙がちょちょ切れたり胸が締め付けられたりということはない。あったとしても何だか訳のわからない気分なだけで、ちっとも感動はしていないだろう。
つまり、何の感想もない原子分子の集まりを見ているのでもなく、当の絵から引き離された「感動の情」に感動しているのでもなく、身体に感じる「感動の感覚」が感動なのでもない。
事態はただ、心の中などでなく「なんらかの情感を持った絵」がそこにある、というそれだけなのである。

けれど一枚の同じ絵が見る人により「感動的」でもあれば「つまらなかったり」もして、感想が異なったりする。
やはり、そういった各人各様の情感はおのおのが個別に抱くものではないか、と言われよう。
もちろんそういった情感や感想は人により異なるものであるが、同じ一枚の絵はひとつである。
それを“目から各人の頭の中に取り込まれた視覚像”と“実物”とに剥離するのは誤解である先ほど考察してきたし、またそのように各々のうちにいそいそと仕舞いこむ必要もない。
ただ単に、そのひとつの物が様々な見え姿を持つ、というだけのことなのである。
テーブルの中央に花瓶に挿した一本のガーベラを飾る。その見え姿は、どの席に腰掛けたかによって違っているであろう。
だが同じひとつの花瓶に挿した一本のガーベラを見ているのである。
月は近くで見ればアメリカやオーストラリア大陸がすっぽり入るくらいの大きさだが、部屋の窓から眺めると500円玉より小さい。だがお月さまは1つだけだ。
工場の煙突は遠くからは長四角に見えるが近づくと筒状に丸かった。けれどそれは同じ一本の煙突である。
いや、そんな見間違いや目の錯覚まで実際の姿と並列に扱うのはおかしいと言われるかもしれないが、見間違いや目の錯覚というのは真の世界に対する誤り・実在しない虚妄というのではなく、“どの見え姿を採用するか”という生活や文化的要請からくる分類なのである。
暗い波止場で海面を道路の続きだと思って車を走らせたり、酔って帰りアパートの隣人宅のドアを自室と思いガチャガチャ開けようとしたり、何かの機会にたまたま金ばなれのいい振る舞いをした上司を見ていつもいつもご馳走になろうとしたりすると命取りになるから気をつけよう、という類と同じ“生活上の分類”なのだ。
どれもがそのときそのときの“本当の”姿であり、ただ一時の見え姿を永続する“本当の正体”かのように思い為すことが錯覚であり誤りなのである。
そのように、ひとつの物がそのときどきで様々な見え姿をとろうとも、どれも等しく“本当の”姿であり、「真実はひとつ!」ではあってもそれは多面体である、ということである。

たとえば、クールぶってていけ好かない奴だと思っていたライバルが、あるときふと自分に弱音を吐いたとき「手を貸してあげたい友人」として見えてきたりする。
たとえば、子供のころ苦手だったキノコが、テレビのグルメ番組で目にした途端「食べてみたい食材」として見えてきたりする。
たとえば、買ったはいいけど派手すぎたかなと着るのを躊躇していた服が、明日の合コンを前にして「勝負着として着ていくつもりのドレス」として見えてきたりする。
“感動”も“思慮”も“意志”も“計画”も「純粋エキス」としてあるのでなく、この世界の事物のそのときどきの見え姿として“こそ”その存在を発揮し、またそういった見え姿なしには、壁の絵も友達の姿もマイタケご飯も背開きワンピースも見ることは出来ないのだ。

かように、この世の中とは外側(無情の物質世界)と中身(有情の心的世界)という二項構図ではなく、世界そのものがそのときどきの多義的な色彩を持った有情の場なのである。

私は何にもない虚空のなかで悲しむのではなく、部屋の中、街なか、電車の中で悲しむのである。
そして多くの場合私が悲しむのはそういう私をとりまく世界の中に何かが起ったからである。
別の人には“のどかな昼下がりの街の風景”に写っているかもしれないその同じ世界が、私には悲しみのカラーを帯びた見え姿をとるのである。
それとともにその世界の一部である私の「身」の内部にも生理学者が言うようなことが起きているのである。
その内部で起きていることの一部は何かの原因の結果であろう。
たとえば、「偶然目撃した、知らない女性とイチャイチャしている恋人の姿」からの反射光線が原因となって私の視覚神経や脳の視覚領野の細胞に変化が生じたであろう。
しかし、それらの物理的生理的変化が原因となって私に「浮気男」の姿が「見え」たり「悲しくなる」のではない。
その“悲しい状況の全体”の中での私の体内を科学的ボキャブラリーで描写したのが生理学者の叙述なのであり、
他方、「見える」とか「悲しい」とかいったボキャブラリーで描写すればその同じ状況全体の、しかし粗雑で日常的な叙述になる。

さて、こんな話を長々と聞かされて「トンデモ屁理屈だな、馬鹿げてる」という感想は、このブログにあるのだろうか。
それとも、網膜から入り込んだパソコンモニターからの反射光が大脳に映す上映会を見た小さいあなたが“心の中”に吐き捨てたものだろうか。

どちらにせよ、そんなことを言われるのは“心外”でなのである。
プロフィール

角田のり

Author:角田のり
曲や動画を投稿したり、ギターを弾いたり、絵や雑文を書いたりしています。

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