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私は中身のない人間である。

私は中身のない人間である。

「いえいえ、そんなことないですよ~」などと言って私を励まそうとしてくれるあなた。あなたもまた、そうなのですよ。中身なんて、ひとっつもありゃしない。
おやおや、どうしました?今日は虫の居所でも悪いのですか。けど自分を卑下するのみならず他人にまで攻撃的に当たるなんて良くないですよ、とでも言われようか。
しかし、卑下でもなんでもない。ヒゲやオデキと同様、あなた方が言う「人間の中身」なるものも、皮膚よりも表面に、すなわち内部ではなく外側にしか現れえないものではないか、と言いたいのだ。

さて、ここで言う「人間の中身」とは何だろうか。
外見だけの人ではなく中身のある人物になりたい、そういう人とお付き合いしたい、などと言うのを耳にするが、ではその「中身」とは何なのか。
たとえば、他人を慮れる「優しさ」がある。
たとえば、美しいもの・素敵なものを感じ取れる「感性」の豊かさ。
たとえば、流行に左右されず自分はこうするのだという強い「意志」を持っている。
たとえば、行き当たりばったりではなく先々のことを見通して考えることのできる「計画性」がある。
…等だろうか。

それらはその人の目鼻立ちや髪型、装いや肩書きといった外側に表われているものに対して内なるもの、内なる「精神性の有りよう」なのだと思われているようだ。
だが“内なる”とはいうものの、その「うち」と「そと」との境界はどこにあるのだろうだろうか。
まさか先ほどの皮肉ではないが本気で皮膚の外側とそれより内部という分け、文字通り“皮”や“肉”のウチソトを言っているのではあるまい。
胃袋や脳みそはなるほど、化粧も出来なければ立派に着飾ることもできないように思えるが、外科医の手によって身をヒラキにしてもらったり三枚におろしてもらえばそれも不可能ではない。

いやいやいや。
物質としての脳はたしかに手術でもすれば髪や鼻や手足と同様外気にさらすことも可能なブツではあるが、そうではなく、目には見えない脳の働きとしての「感情」「情念」「思考」等々、それらの総称をわれわれは“心”と呼び、その“心”の豊かさ・温かさ・綺麗さをこそ「人間の中身」と称しているのだ、と言われようか。

しかし、ここには2つの誤解があるように思う。
「感情」「情念」「思考」等が脳の働きの所産である、つまり“頭の中”から生み出されるという誤解と、それらは目にはつかない“心の中”という場所に秘められているという誤解が。

たとえば、絵画などを見ていたく感動するといった経験がある。
このとき体のなか、脳内で生起していることについて、たいていの人は多少なり解剖学や生理学知識を聞きかじっていて知っている。

壁に掛けられているのは絵の具の平面的分布でありそれ自体は何の感動もない原子分子の集まりである。
そこからの反射光が網膜に入り電位パルスに変換され神経を伝導し大脳の視覚領野に到達し像を結ぶ。
またこのとき視床下部のあれこれやホルモンやアドレナリンの分泌がなされた結果、「私に素晴らしい絵が見えて、それに感動する」と。

だが、脳が外部からの刺激に反応しデータ処理を施されたそれを「見」たり「感じ」たりするのは何者なのか?
もちろん「私」である。
だがその「私」はどこにいてどのような仕組みでその作用を受けるのか?

頭蓋の奥でうずくまり、脳が処理した情報を受け取る「小さい私」がいるとでも言うのなら、結局受け取った情報をその私が見たり聴いたりしなければならない。
「私がいかにして見るのか」ということの説明は依然としてなされていないままなのだ。
これでは小さい私の頭の中にさらに小さい私をこしらえてマトリョーシカが仕立てられていくだけである。

いや、そうではない。脳が処理した情報を君が見る必要などないのだ。脳が情報を処理した、というそのことがすでに君が「見た」ということなのだ、と言われようか。
これはつまり、頭の中で窮屈に暮らしながら脳からの“翻訳処理済み”と印された郵便物を受け取る「小さな存在」が私なのでなく、脳そのものこそが私なのだ、ということだろうか。
外部からの情報を物々しくデータ処理し翻訳した訳文という“コピー”ではなく“原文”をそのまま読んでいるということは、視覚で言えば「実物の風景を直に見ている」ということになる。
ならば“見える”ということを引き起こす「原因」として処理作業があるのではなく、それは見えているときの体のある部位でのエピソードのひとつにすぎないのではないか。
たとえば、腰を折り曲げ上半身を前に傾ける“お辞儀”が「原因」で“挨拶”が発生する、とは言わないように。

結局のところ私に何かが「見・聴こえ・感じ」ているとき、脳内での物質の動きをその現象を生み出す「原因」である、と言うことは出来ないのである。
というより、そんなことを言おうとする必要など、そもそもなかったのではなかろうか。
私たちの日常的な知覚経験をもとに、後年そのなかから科学の言葉は定義されていった。
原子分子の集まりとして描かれるリンゴが、知覚のリンゴと同位置・同型であるのは“事実”としてそうだからではなく、そのように定義されたからなのである。
科学的描写は必ず知覚風景に重ねて描かれるものであり、知覚風景から独立して描くことはできない。
しかし、もともとは知覚風景を根本的前提としていながら、一旦描かれた科学描写は独り歩きを始め、「この世界の科学描写をすればそれが真の世界描写であり、知覚風景は脳に映じた挿絵や幻のようなもの」という本末転倒の考え方が生じてしまった。
そうした挙句、日常的な知覚の“原因”をも科学によって描写しうるはず、という長年の強迫観念にとり憑かれてしまったのではなかろうか。
だが、これは全く逆なのである。
知覚風景なしでは科学描写は意味を持ちえない。

要するにそれは「原因‐結果」の関係を言うものではなく、かといって全然関係のない事柄だというのでもない。
時間空間的に重ねて別言語で語られる“描写法”の違いのはずであった。
たとえば、「物が燃えている」のと「炭素と酸素が化合する」のとは、原因と結果ではなく、一つの同一の事柄を二様に語っているのである。
一つは知覚の言葉で、一つは科学の言葉で。この意味で、二つの語り方は「〇〇とはすなわち…」の関係である。
視覚と脳変化を語る二様の言葉があり、異なるのはこの語り口である。一方がもう一方の原因となるような二つの異なる出来事はない。
体内で起こっていることの科学語での語り方、それが脳生理学者の語る電気信号の神経伝達や脳内の細胞の動きといった話なのである。

たしかに、脳内にイレギュラーな事象(疾患や損傷など)が起これば視覚にも異常が生じたりする。
しかしその事実をもって「脳原因説」に舞い戻るは早とちりである。
たとえば、緑のセロファン紙越しに見れば白い壁は緑っぽく見え、大きなバスが横切れば向こう側の建物は見えなくなる。それらは私たちにとって前景の変化として捉えられている。
では、眼球に傷が入った場合はどうか。
やはり、景色は変わって見えるであろう。
セロファンや大型車と同様、目ん玉も生得のカメラレンズという「物質」である。
そして脳みそもまた、物質である。
つまり、目や脳もセロファンやバスのように前景の一部だとは考えられないだろうか。
すると、セロファンをかざす前と後やバスが通る前と後のように、目を引っ掻かれる前と後、脳の血管が切れる前と後とで風景に変化があるのはなんら不思議なこととは感じられない。
いや、風景の最前線に脳みそが浮かんでるなんてバカなこと想像できるか、邪魔で何も見えまい、という方は探偵ポアロの「 grey cells(灰色の細胞)」か解剖室で頭の蓋を開けられて観察されている状態を思い浮かべているのかもしれないが、生体の眉の下に位置して外部風景を透視しているときにはそれは透明なのである。
そう、網膜以降の脳全体を網膜というレンズがちょっと肥大したものと考えてもらえばよい。
つまり脳→視神経→眼球→空気→物、と“脳や視神経をも透かして”前景を重ね見ているのである。
セロファンの場合と違うのは、脳や視神経のいかなる変化が「すなわち」外部風景のいかなる変化であるのか、それを私たちはあまり知らない、ということだけである。
正常時には空気と同様に透明な脳が、異常時には何色に見えどのように歪んで見えるのかについて、われわれはあまりにも経験不足なのである。
しかし兎にも角にも、脳に異常が生じそれが透明でなくなるとき、それを“透して”見る外部風景に変化が生じることは、セロファンの場合と全く同様「すなわち」の関係によってなのである。

しかし、セロファンやバスや目のケガによって風景が変わることに対しても「それは対象からの反射電磁波の変化または遮断、あるいは網膜の光量子受容体ロドプシンの再合成および信号伝達の遅れが大脳後頭葉の視覚領野に及ぼした影響がウンヌンカンヌン…」と“原因”を説明したがる人がいるだろう。
だが、「透けてない事物の向こう側は透かし見ることが出来ない」「透けている事物は透けて見える向こう側と重なって見える」というのは単に視覚風景が持つ“論理的性質”ではないか。
論理的、というのは何も特別な理屈などではなくトートロジーである、ということだ。
論理的とはつまり言葉の規則に従っているということであり、ゆえに冗長な同義反復なのである。
その論理的に当然なことの描写に対して「セロファンで波長が変わって」「バスの後ろで光が跳ね返って」「網膜の色素体の再合成量が足りず」などといま一度語るのは“原因”を暴くような説明をしているのではなく、物理生理学の語り口での平行的な描写を添えているだけなのである。
光が目にこない“から”見えない、のではなく、見えていないとき反射電磁波が網膜に達していない、という化学語での“付け加え”なのだ。

そして“論理的性質”であるならば、ここに脳の影響は意味を持たない。
たとえば、「1+2=3」、この足し算に対し、「脳の構造によって 1+2=3 となる」などとは言えまい、ということだ。
もし「脳の構造によって 1+2=3」というこの文が脳の因果的関与をいうのであれば、「脳の構造がいまと異なるものならば、1+2=3 とならない」と言えることになる。
これが“脳の病変によって正しい計算が出来ない”という意味でなければ、他にどのような意味を持つのか。1+2=4 も可能ということだろうか。
ならば、そもそも脳内変化や脳の構造を語るために持ち出した計量的表現一般が意味をなくしてしまう。
そしてこのとき「この脳の構造がいまと異なるものならば、1+2=3 とならない」という文そのものの「脳」も意味を失う。
算術の法則に則った思考は脳の正常な状態を示しはしても、算術の法則そのものは脳の構造に由来するものではない。
また「AならばBである。いまAである。ゆえにBである」というこの三段論法が脳の生み出したものであれば、
「もし脳の構造が異なっていたら、三段論法は成り立たない」が意味を持つはずである。
しかしそうなると、論理的推論そのものの意味が変わる。
まだ意味があるとして、そのとき「もし脳の構造が異なっていたら…」という推論文の「脳」は意味を保っているのだろうか。いや、保てまい。
数学・論理学・その他その法則に従った命題の正しさが必然性を持つとき、その正しさに脳は関与しない。
必然性の由来は脳ではない。
計算や推論の正しさは脳の影響からは自由なのである。

さて、主に視覚について見てきたが、他の知覚に関しても同様に“脳によって生み出されている”というのは長きの誤解であろう。
私たちは電磁波を見たり、空気振動を聴いているのではない。見、聴きしているとき、その同じ状況を言い表す別の言い回しを長いあいだ“原因と結果の関係”であると勘違いしていたのである。

うーん。いや、それにしたって、仮に視覚の原因を脳の機能に求めえないとしても、「絵を見て感動する」そのときの“感動”とは、やはり自分の心の中だけのものではないのか。
「壁に掛けられているのは絵の具の平面的分布でありそれ自体は何の感動もない原子分子の集まり」であろう。
また、仮に自分には素敵な絵に見えたってちっとも良いと思わない人もいたりして、皆が同じように感動するわけではあるまい。感想は十人十色、人それぞれではないか。
それはつまり、感動とは各人の心の中にあるということではないか。
そう問われるだろう。

しかしその考えは、私を感動させている当の絵から「感動の情」というものだけを抽出し引き剥がしていることになる。
だがそのように絵から「感動」だけを抜き出すことなど出来ようか。そもそもそのような、いわば「純粋感動」のようなものを考えることが出来ようか。
私が感動しているのは絵に対してであって、そんな「感動エキス」にではない。
頭痛に見舞われているとき、端的な頭の痛みと別にその“痛み”を痛んでいる私がいるわけではないように、“感動”を感動している私がいるのではない。
ただ「感動する絵がある」という状況を、「私が絵を見て感動している」と言い表しているのだ。
そして「純粋感動」など抜き出せないのと同様に、その感動を漂白し抜き去った絵というものを思い浮かべることも出来ない。
じっさい「それ自体は何の感動もない原子分子の集まり」としての絵というものをいくら考えようとしても、好きだ・嫌いだ・何かに似ている・あまり上手くないな・前衛的だ・退屈だ・素敵だ・高そうだな・無味索漠だ…等々の、あらゆる感想・雑感を一切抱かずに“絵”を見ることは不可能ではないか。
事物とその感想を引き剥がすことは出来ない相談なのである。
そしてその絵は私の心の中に飾られているのでなく、額に入れられ前の壁に掛けられている。すなわち「感動」はその絵のところにあるのだ。
また、感動のあまり目頭が熱くなろうが胸がキュッとしようが、それらの感覚が体内にあるとは言ってもそれを「心の中」とは言えないだろう(歯の痛みや胃痛が「心の中」だとは言わないように)。
「泣くから悲しくなるんだ(だからもう泣くな)」といったお説教(励まし?)があるが、目頭が熱くなることが感動なのではなく、あくまで絵に感動して泣きそうなのだ。
その絵もなく、ただ涙がちょちょ切れたり胸が締め付けられたりということはない。あったとしても何だか訳のわからない気分なだけで、ちっとも感動はしていないだろう。
つまり、何の感想もない原子分子の集まりを見ているのでもなく、当の絵から引き離された「感動の情」に感動しているのでもなく、身体に感じる「感動の感覚」が感動なのでもない。
事態はただ、心の中などでなく「なんらかの情感を持った絵」がそこにある、というそれだけなのである。

けれど一枚の同じ絵が見る人により「感動的」でもあれば「つまらなかったり」もして、感想が異なったりする。
やはり、そういった各人各様の情感はおのおのが個別に抱くものではないか、と言われよう。
もちろんそういった情感や感想は人により異なるものであるが、同じ一枚の絵はひとつである。
それを“目から各人の頭の中に取り込まれた視覚像”と“実物”とに剥離するのは誤解である先ほど考察してきたし、またそのように各々のうちにいそいそと仕舞いこむ必要もない。
ただ単に、そのひとつの物が様々な見え姿を持つ、というだけのことなのである。
テーブルの中央に花瓶に挿した一本のガーベラを飾る。その見え姿は、どの席に腰掛けたかによって違っているであろう。
だが同じひとつの花瓶に挿した一本のガーベラを見ているのである。
月は近くで見ればアメリカやオーストラリア大陸がすっぽり入るくらいの大きさだが、部屋の窓から眺めると500円玉より小さい。だがお月さまは1つだけだ。
工場の煙突は遠くからは長四角に見えるが近づくと筒状に丸かった。けれどそれは同じ一本の煙突である。
いや、そんな見間違いや目の錯覚まで実際の姿と並列に扱うのはおかしいと言われるかもしれないが、見間違いや目の錯覚というのは真の世界に対する誤り・実在しない虚妄というのではなく、“どの見え姿を採用するか”という生活や文化的要請からくる分類なのである。
暗い波止場で海面を道路の続きだと思って車を走らせたり、酔って帰りアパートの隣人宅のドアを自室と思いガチャガチャ開けようとしたり、何かの機会にたまたま金ばなれのいい振る舞いをした上司を見ていつもいつもご馳走になろうとしたりすると命取りになるから気をつけよう、という類と同じ“生活上の分類”なのだ。
どれもがそのときそのときの“本当の”姿であり、ただ一時の見え姿を永続する“本当の正体”かのように思い為すことが錯覚であり誤りなのである。
そのように、ひとつの物がそのときどきで様々な見え姿をとろうとも、どれも等しく“本当の”姿であり、「真実はひとつ!」ではあってもそれは多面体である、ということである。

たとえば、クールぶってていけ好かない奴だと思っていたライバルが、あるときふと自分に弱音を吐いたとき「手を貸してあげたい友人」として見えてきたりする。
たとえば、子供のころ苦手だったキノコが、テレビのグルメ番組で目にした途端「食べてみたい食材」として見えてきたりする。
たとえば、買ったはいいけど派手すぎたかなと着るのを躊躇していた服が、明日の合コンを前にして「勝負着として着ていくつもりのドレス」として見えてきたりする。
“感動”も“思慮”も“意志”も“計画”も「純粋エキス」としてあるのでなく、この世界の事物のそのときどきの見え姿として“こそ”その存在を発揮し、またそういった見え姿なしには、壁の絵も友達の姿もマイタケご飯も背開きワンピースも見ることは出来ないのだ。

かように、この世の中とは外側(無情の物質世界)と中身(有情の心的世界)という二項構図ではなく、世界そのものがそのときどきの多義的な色彩を持った有情の場なのである。

私は何にもない虚空のなかで悲しむのではなく、部屋の中、街なか、電車の中で悲しむのである。
そして多くの場合私が悲しむのはそういう私をとりまく世界の中に何かが起ったからである。
別の人には“のどかな昼下がりの街の風景”に写っているかもしれないその同じ世界が、私には悲しみのカラーを帯びた見え姿をとるのである。
それとともにその世界の一部である私の「身」の内部にも生理学者が言うようなことが起きているのである。
その内部で起きていることの一部は何かの原因の結果であろう。
たとえば、「偶然目撃した、知らない女性とイチャイチャしている恋人の姿」からの反射光線が原因となって私の視覚神経や脳の視覚領野の細胞に変化が生じたであろう。
しかし、それらの物理的生理的変化が原因となって私に「浮気男」の姿が「見え」たり「悲しくなる」のではない。
その“悲しい状況の全体”の中での私の体内を科学的ボキャブラリーで描写したのが生理学者の叙述なのであり、
他方、「見える」とか「悲しい」とかいったボキャブラリーで描写すればその同じ状況全体の、しかし粗雑で日常的な叙述になる。

さて、こんな話を長々と聞かされて「トンデモ屁理屈だな、馬鹿げてる」という感想は、このブログにあるのだろうか。
それとも、網膜から入り込んだパソコンモニターからの反射光が大脳に映す上映会を見た小さいあなたが“心の中”に吐き捨てたものだろうか。

どちらにせよ、そんなことを言われるのは“心外”でなのである。
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Author:角田のり
曲や動画を投稿したり、ギターを弾いたり、絵や雑文を書いたりしています。

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