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擬人化しあう私たち

※これは以前mohigerian氏より、「『艦これ』というゲームに関する同人誌になにか書かないか」というお誘いを受け、ゲーム全般に疎い私なりに自由に書かせていただた小文の転載です。



「艦これ」とは、旧日本軍の軍艦をかわいい女の子に擬人化した「艦娘(かんむす)」を集めて無敵の連合艦隊を目指すゲームである、そうだ。そうなのか。
かわいい女の子のことを語らせればこの企画のページ数限度に収まりそうもないので、今回は「擬人化」ということをテーマに書いてみたいと思う。

 
人ならざるものを人のように見たて、人間の性質・特徴を与える比喩の方法を「擬人化」というが、人間でないもの、とりわけ戦艦のような無生物に比して人間が持つ特性としてまず挙げられるのが「精神活動」だと思う。
ところで、自分がものを感じたり考えたりするように他人である家族・恋人・友達・すれ違う人びとであっても物ではなく人間であるのなら、みな同様に精神・心を有しているであろうことは疑われていないようである。

しかし、これは事実であろうか。

人ならざる機械、たとえば掃除機が大きすぎるものを吸ってしまい「ブフー、ブフー」と唸っているとき「苦しそう、かわいそうに」などというと、「ヤレヤレ、『掃除機さんかわいそう〜』とかいってる私かわいいアピール、ですか」といった目で見られる。
ところがその後、さっき私を呆れ笑いで見ていた友人が本棚の角に足をぶつけて「アイタタ、痛ったあ!」と喚いていたとする。
そのとき私は平然とした顔で「ヤレヤレ、あなたは本当に痛みを感じているんですかね〜」などと尋ねたりはしない。
だが、尋ねてみてもいいはずなのである。
なにもさっきバカにした態度をとられたことに対する腹いせではない。私ではない他者の本当の「痛み」やら「苦しみ」やらのあるなし、その決め手はなんなのかをこの際にちょっと考えてみたいのである。

ではここで、掃除機よりは幾分高価な機械、非常に精巧なロボットで考察してみたい。
ロボはなにかの拍子に転倒してしまい筐体の一部を破損した。皮膚と見紛いそうなほどのシリコン樹脂も破れてしまい、そこから血ではなくなんらかの化学液体が漏れ、銅線が何本か飛び出している。
しかもこのロボットは、「ブフーブフー」ではなく「い、痛い」「ゼィゼィ、苦しいよぉ」と振る舞い、顔の表情をしかめたりもする。
なるほど、よくできてはいる。が、所詮はプログラムによってそういった「フリ」をしているだけじゃないのか。
そんなふうに尋ねてみれば「もう!本当に痛いんだってば」とロボおこになって返してくる。
病院ではなく研究所に搬送し、医師でなく技術者が破損箇所を検査してみれば、人間の神経繊維とは比べれば無愛想な金属線が走り、それをパルス電流が流れている。
そしてそれがロボットであるワタクシの痛覚神経なのだ、つまりわれわれロボットがやや硬質な素材であるのに対し人間はぶよぶよで水っぽい素材で出来ているというだけで、仕組みとさほど変わらないのだ、というだろう。
ここらで呻いている友人のことを思い出し、彼のケガも見てみる(看るのではなく)。
足指の物理的な傷、それに伴う痛覚受容器の物理化学的変化、それに伴う痛覚神経の電気化学的な変化、それに伴うその変化の電気化学的伝導、そして脳の知覚神経細胞の物理化学的変化-そして「痛み」、このとき体のなかの諸変化は物質の動きであり変化である。だが、彼は足が痛いのである。足の指を見てみる。しかしそこにあるのは傷口であり、あるいは受容器の変形や損傷である。そのどこにも「痛み」は存在しない。物質粒子はどう動こうと粒子の動きであり、そのどこにも「痛み」はない。
ふたたび脳の神経細胞を調べる。そこに見出すのはあるいはタンパク質、 あるいは脂肪、あるいは無機物質である。また、どのタンパク質が痛んでいるのだろうか。やはり、どこにも「痛み」はない。

結局、決め手はないのである。
それは「痛い」とか「5+7=12」とか「カレーを食べよう」とかと、細胞の興奮やら神経伝導などとはまったく別のことだからである。
脳細胞のどこをほじくっても、痛みも思考も意志も出てこない。コギトはすべて物質世界から閉め出しを食らっている。
そういったことを生理学や工学的なやり方で検出できると思うことが端からトンチンカンなのだ。
私がちょっと指先を切っただけで私は端的に「痛い」のだが、自分以外の人間が自分が感じるのと同様の痛みを感じているのかどうか、それを確かめる方法というものが原理的にないということなのである。
その点で、物質的組成の違いだけで、自分から見ての他者、つまりは家族友人であろうが自分以外の人間はすべてロボットと同じ位置にある。

しかし問題はこれにとどまらない。

傷薬を塗りながら友人はなおもこういうのだ。
たとえ自分ならざる他者であっても、親しい人の痛み、たとえばそう、痛みに泣いている子どもを信じない親などいようか。我が子の痛がりを信じるのにわざわざ物々しい証明など必要ないだろう、と。
ええ、ええ。そうでしょうとも。
しかし、もし自分が信じている我が子の痛み、それがじつは我が子の痛みでないとしたら(いや、DNA鑑定の話ではなく)。
信じていることの真偽の証明がないということではなく、信じていると思っている事柄自体が不可能な事柄であったら、という話である。
そしてこれは事実、そのとおり不可能な話だと思われる。

私に見える「赤」という色、私が感じる「痛み」、それらはただ私自身に見え感じるものではないか。それを他人が見たり感じたりすると考えることは不可能である。
だから、他人も私に似た経験をしていると想像したつもりでも、じつは想像できているのは他人に成り代わったつもりの私自身のことではないだろうか。
想像できるのはどこまでいっても他人に変装したつもりのこの私の感覚であって、私自身をやめた他人の気持ちではない。
ああ痛かろうに、とどんなに心痛したところで「我が子が痛い」ということを想像してはいない。その想像は不可能だからである。
しかし、だからといって我が子にコスプレした自分の痛みに心痛しているわけではない(その変装は別の意味でイタい)。心痛の対象はあくまで我が子である。
じつはこの奇妙な状況で行われていること、「他者に成り代わった自分」の想像を投げかけながらその他者に向き合うこと、感情移入というより感情の投射を行うことこそが、自分ならざる他者を自分と同様に見立て、自分と同じような性質・特徴を与え見る、「擬人化」ならぬ、まさに「擬自分化」なのだ。

他人に心があるのは証明の結果だったり信じたからなのではなく(そしてその仕方などどこにも存在しないのであった)、心あるものとして見、応対するという態度をとっているからなのである。
その態度をもって他人に心を吹き込み、他人の心を創っているのである。
態度、なのだから自分次第でいつだってやめようと思えばやめることもできてしまうし、その途端にその人は無機質なただのデクノボウの群に囲まれて生きていくことになり、デクノボウたちによってその心ない態度を「アイツニハニンゲンラシサガナイ(あいつには人間らしさがない)」などと評されるだろう。つまり今度は疑人化される(人であることを疑われる)のである。
心の吹き込みあいこそが、他人を、自分を人間たらしめているのだ。

道端の小石であろうと風に揺れる木の葉であろうと人間であろうとロボットであっても、それら自体としては心あるものでもないものでもない。
花が微笑むのを見、馬が鼻で笑うのを聞き、荒波の慟哭に胸をしめつけられ、長年愛用して動かなくなってしまった家電との別れにさみしさを感じる。
それを心だと感じている、まさにそれが心だということである。
 
古の人びとが獣に山川草木に天体に雷に海に“アニミズム”と呼ばれるような寛容で鷹揚な擬人化・擬自分化の態度をとっていたように、現代に生きる私たちもペットやぬいぐるみ、家具や道具、物語やゲームのキャラクターにだって、いかに接し交わり暮らすかによって自分自身の人間性も豊かにも貧しくもなるのではないだろうか。
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Author:角田のり
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