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超説 すべてはまぼろし

嬉しかった出来事、悲しかった出来事、寂しい思いをしたこと、そのすべてはまぼろし。
眩かった光、おいしかったゆうべの食事、水を吸って増えたワカメも、やっぱりまぼろし。
テレビで見たタレントも、屋根の上で寝てた猫も、鮭を獲ってた熊だって、全部全部まぼろし。



いやいやそんなバカなという思いとあぁ本当はそうなのかもしれないなという思いが入り混じる、ユニークでだけどちょっと切ないポッジーニさんの名曲「すべてはまぼろし」。

いま現在経験している出来事なら生々しい知覚があるけれど、もうここにない一瞬でも過ぎさった過去の出来事なんて本当はなかったものなのかもしれない。そんな厨二的哲学懐疑は誰しも一度は抱いたことがあるのではないだろうか。
たいていのまともな人たちは大人になる前にそんな哲学風邪から回復し健全な社会生活を営むのだろうが、一部で症状を拗らせてしまう人もいて、ある者は素敵な歌を作り、またある者はこんな愚にもつかない論文まがいを書きつづる。

さて、では過去は実在するのであろうか。
そもそも“過去の実在”というとき、私たちはいったい何を意味しているのだろう。

たとえば「昨日友達と食事をして楽しかったなあ」と思い浮かべるとき、事実としてそのような出来事が昨日という過去に存在していて、だから今それを思い出すことができるのだ、という思いが強くある。
しかしその強い思い込み、確信の根拠を問われると「えー、だって実際そうだったから…」と口ごもってしまうのではないだろうか。
思い出し・思い浮かべとは別に、それと独立して、思い出す以前から確固としてあるはずと思い込んでいる“過去”というものを捉えようとしても宙をつかむばかりになってしまう。
じつは私たちは「思い出すことに先立ってあらかじめ存在している過去」なるものの意味を持ち合わせていないのである。そういう意味を言表可能な形に形成できたことが一度もない、ということである。
ではまさか、何かを思い出しているとき、しかも「確かにあった過去だ」と強く確信して思い出しているにもかかわらず、だけど実際にはそれらは何の実在にも呼応していないただの“まぼろし”だというのか。
その通りではないか、といいたい。
その実例を、寝ているあいだに見た夢の内容を目覚めてから思い出すときに体験している。つまり、目覚めてから「こういう夢を見ていた」という話は聞くが“いま見つつある夢”の報告などはありはしない。起きて初めて「夢を見ていた」と語りだすわけだが、それは本当に眠っているときに見た夢なのだろうか。そもそも眠っている最中の“夢見”という体験自体がありもしない虚構であって、あるのは覚醒時の特異な思い出し体験だけではないのか。
つまり私たちが実在する過去なるものの意味を手にしていない以上、すべての思い出しもまたこのような夢まぼろしと同じなのではないだろうか。
それは「人の一生なんてみなユメマボロシのようなもんさ」などとセンチメンタルな喩えではなく、端的にそれに対応した現実がない、ということである。

ではそれで、実際私たちは過去を虚無か夢か走馬灯のようなものとして空空漠漠とした心持ちのまま脱俗した遁世ライフを送っているであろうか。
隠者や世捨て人のようにそうした態度での生き方・ライフスタイルを持つこともあるいは可能かもしれないが、多くの人は「もちろん過去はあっただろう」と思いながら、じつは過去の実在には頼らないもっと俗臭豊かな仕方で過去というものを扱っているのではないか、と思われる。

以下に、日常場面の観察から実際には過去がどのように扱われているかを考察していきたい。

「昨夜の友との会食」などを思い出す。
まず、その思い出しの内容が昨晩であれ10分前であれ5年前のことであれ、その“思い浮かび”自体はいま現在の経験である。
そしてそれは薄っすらと、ときには鮮やかに色や形や音を持っているように思われがちだが、実際には思い出しという想起には見え・聞こえ・味といった知覚はない。思い出される友人の服のボタンにいままじまじと目を凝らすることは出来ず、レストランの隣席のカップルの会話に耳をそばだてることも出来ない。料理は美味しかったがそれを思い出してもいまは口内にはなんの味もしない唾しか出てこない。
想起されているのはただ「あの子は洒落た秋物を纏ってたな」とか「いけすかないジャズが流れてた」だとか「デザートにアイスを食べた」など過去形の言語命題の一群なのである。これらの想起された言語命題は想起された経験の描写や叙述ではない。その言語命題自体が想起された当のものなのであって、想起された経験の言語的表現ではないのである。
つまり想起とは、思い出しているいま「言語による命題的な経験」として初めてする体験なのである。過去形命題の言語的な了解こそが思い出しの体験であり、そしてそれはどこかで思い出されることを待ち構えて待機していたある体験の擬似映像が“再放送”されるようなものではなく、いま現在の体験なのである。

たしかに思い出しに際して知覚風景が浮かびあがる感じはどうしてもぬぐいきれない気がする。
しかし、この映像めいた何かは知覚的な“想像”であり、真の思い出しである命題の言語的了解の単なる補助、いわば文章を読むときに挿絵されるイラストのようなものではないだろうか。
それはたとえば、微生物やDNAのような「本来見えないほど小さいもの」の姿を電子顕微鏡で覗いたときにそこにある二重ラセン形をその“拡大”だと理解する仕方に似ている。つまり、本来見えないほど小さいものだからそれを知覚的に見たことはないわけで、顕微鏡の映像と比較してそれをその本物の拡大だということも出来ないはずなのだが、理論的な考察(光学理論やX線解析理論等)によりその顕微鏡映像を本物に重ねて“考えて”いるのである。この“考え”とは諸理論に基づいて、すなわち言語的になされるのだから、微小物の理解は言語的了解なのである。
顕微鏡で見えていた像はいわばその言語的了解を補助する図解のようなものにすぎないのだが、そのことを忘れその知覚的な図解を微小物の形そのものと短絡してしまう人がいるように、思い出しのときに浮かぶ薄い映像めいたものを知覚の再放送のように考え、それが“実在する過去”という妄想に人を誘ってしまうのではないだろうか。知覚的補助イラストを想起内容そのもの、すなわち実在する過去の影かのように思い為して。
しかし、知覚的な図解には過去の過去性そのものを表現することは出来ないのではないかと思われる。
たとえば、「あの日の夕焼けはまぶしかった」という思い出しを知覚風景で図解しようとすると、ただ鮮やな茜色の空を用いてしまうのではないだろうか。しかし、茜色の空の図とはいままさに夕日が降り注いでいる風景であり現在進行形の景色ではないか。「夕焼けがまぶしかった」という過去の知覚風景などどこにもない。
これに限らず何であれ、過去性というものを知覚的に描写など出来ないのだ。過去性の図解なんてありえないのである。
では何によって過去性は理解されるのか。それこそが過去形の言葉遣いの了解、つまり言語的了解によってである。

ところで、思い出しのそのつど命題の言語的了解によって経験されるという点においては現実の体験も夢も同じように思えるが、その真偽を問う必要の有無となるといささか違いがあると思われる。
どちらも思い出しに先立って存在しているわけでないと考えるなら、その想起内容の真偽は比較参照すべく原版が存在しないわけだから誤謬という意味自体が成り立たない、というところは一緒である。だが、あくまで「自分自身の経験である限りにおいて」はこの無謬性は成り立つのだが、夢の想起においては問題がなくても、現実の過去について語る場合想起同士の食い違いという問題は起こりうるだろう。
複数の当事者間での合意を必要とするような社会生活の場面において、出来事の想起が言語的な表現に過ぎないのならば、その出来事の真偽、ゆうべはどっちがカラオケ代を立替ただとかは一体何に基づいて判定されるのだろうか。 貸し借りも何も言葉によるのならいくらでも恣意的に捏造できてしまうのではないか。さあ、真なる過去は一体どうであったか。ここで“過去の真理性”というひとつの概念が築き上げられてきたのではないだろうか。
たとえば“高尾山の天狗”や“伝説の忍者”は「夢でも見てたんじゃないの」と一笑に付されてしまうだけだろう。一方、昨夜の会食は現実(真実)だと信じられるのは、過去命題の持つ整合性(同行者との証言すなわち想起命題の一致、少なくともその整合「昨日はああでこうで楽しかったね~」とか、財布の中の残金の寂しさ・二日酔いの頭痛・化粧を落とさず寝てしまった肌荒れといった現在の物理的状況との合致とか)が保証されて、それが今とスムーズに接続しているからであると思われる。すなわち想起内容が“真理の整合性”を保っているからだ。
つまり、何か超越的な実在、すなわち過去それ自体があってそれに対応することを真理条件とする“真理の対応”ではなく、「現在への接続」と「過去内の整合性」を過去命題の真偽を決める真理条件とするというわけである。

また、この真理の整合性によって真とされる過去命題を系統的につなぐことによってひとつの物語が出来上がるだろう。この物語こそ、私たちが想起による過去と呼ぶものに他ならない。つまり、過去とは物語なのである。それは虚構としてではなく真なるものを目指して作られる過去物語なのである。

いま現在の想起を真理条件に沿わせながら過去を物語としてこしらえていくというやり方は、私たち人間とは無関係にアプリオリに実在する過去というものの硬質な近寄りがたさと比べると何とも生活臭のするハンドメイドな過去の捉え方かもしれない。
しかし、“手作り風プリン”はおそらく工場で機械的に作り出されているが、私たちの過去とはかようにドメスティックで手作りなもののように思われる。
何日か前プリンを手作りするつもりでいたが途中でめんどくさくなって、結局既製品を買って食べ満足した。そのせいで余ってしまった牛乳を今朝がた飲んだのだった、という過去。
それは、無駄にブックマークしたクックパッドのページ、コンビニで買ったプリンのレシート、牛乳パックに記された賞味期限、ゴロゴロするお腹の地獄の苦しみ、といった現在の物理的状況やまざまざとした知覚に、整合的かつ無理なく接続できる想起内容をいま言語了解的に“初めて”体験しながら制作した真なる物語であるというわけだ。そう、牛悪くない、悪いのは自分だったと思い知るのだ。

それが、私たちが隠者のごとく脱世なの過去を選ばずに、俗衆らしく「この世のてのにありがとう」しながら生きる道なのである。
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Author:角田のり
曲や動画を投稿したり、ギターを弾いたり、絵や雑文を書いたりしています。

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